昭和五十七年五月二十一日 朝の御理解


御理解第八十九節

「此方の道は傘一本で開く事が出来る」


 二、三日前でしたかね、此処を頂きましたが、傘一本と云う事は確信と云ふ事ですね。
 神様を信じて疑わない。いわゆる信心の確立を願う事と云うね。 又は、傘一本とは安心の事ぢゃ、信心による安心のおかげを受ける事ぢゃ、と云うふうに説かれます。
 教祖様の御時代に、笠岡の金光大神と云われる程の御神徳を受けられた斎藤又三郎先生が、奥さんの御病気で初めて教祖の元へ御参拝になった時に天地の道理を御理解に受けられて、成程、道理ぢゃ最もぢゃと思うて帰ったと。
 この神様は確かな神様だと分かった、と云ったようなお話が残っております。
 甘木の初代、安武松太郎先生は、始めて小倉に御参拝になった時に、大地の御思徳を聞かれた。
 今迄、多くの宗教が天の恵みとか、天恵と云う事については説いても来た、聞いても来たけれども、大地の徳を説かれると、それこそ、げに最もだ、と云う心持ちで帰った。足元から鳥が飛び立つ思いであった、と云うておられるんですね。
 兎に角ね、その信心の芯にふれて、素晴らしい、この神様ならば、この信心ならば、この教えならば間違いない、と確信出来る。
 げに最もだと分かる、と云う所が私は根本だと思うですね。
 例えば、合楽では、人間は土より出て土に帰るのだから、その道中も土の心で生きる。
 こんなに道理に合うた話はないぢゃないか。
 そこに、御神徳が受けられて幸せの条件も足ろうてくるのだ。
 しかも、あの世この世を通して助かっていけるんだ、と云う事を説きますね。
 本当に成程そうだ、と分からにゃいかん、と思うのです。
 人間は土より出て土に帰ったんだ、だからその道中とても土の心で。
 成程、その、土の心で行く生き方を天地日月の心と云った。いわゆる御理念によって、それを開かしてもらうと、一つ一つ最もな、お話しばかりでしょうがね。
 それには、まず成程そうだ、と分からにゃいけんのです。
 人間は、土より出て土に帰ると云われるなら、その道中とて土の心に徹しよう。と云う所から、合楽の御理解は始まらなければね。 信心の確立は、その基礎、土台、絶対なものを信じて初めて参っても、成程道理だな、最もだな、と分かる。
 斎藤又三郎先生、いわゆる笠岡の金光大神がそれを感じられて、それからは打ち込んだ御信心が出来られたように。
 甘木の初代がね、今迄聞いた事のないお話し大地の御思徳を聞かしてもろうてね、それこそ成程、これは本当だ、と実感をもって帰られた所から、本気でその信心を極めようとなさる姿勢も出来たのではないだろうか。
 合楽の場合だって同じ事。
 こんなに間違いがない。道理はないのであるね。
 後先だけ、中はぐちゃぐちゃぢゃいかんね。後先が土なら、その中味とても土の生き方を身に付けて、もうこれに極まった、と皆さんが感じられる。
 そこから私は信心の確立、と云うものはなされるもんだし、勿論安心のおかげも、いわゆる生死の安心にまでも進んでいく事が出来る、と思うんですよね。
 傘一本で開く事が出来る、と簡単に表現しとられますけれども、その根本の所を成程そうだ、と合点がいくおかげ。
 昨日、ある方がお参りをしてみえて、炊事場と便所を増築したが、どうも家相が悪い。と云うふうに云われ、こちらではどういうふうでしょうか。と、金光様ではどういうふうに頂いたら良いでしょうか、と云う意味の事を云われるから、こちらでも、あちらでもないよ。と私は申しました。
 本当、そういう事はないんだよ。とね。
 だから、こちらでもあちらでも、無いものを人間が勝手に作り上げたものであるから、無い、と信ずる事なんだ。とね。
 そして天地の道理を説きました。そして土の心を説きました。
 そこに私は、金光教の信心は迷信打破の宗教と云われるが、打破をするもせんもそういう事はないんだ、と。
 私共のね、そういう所を聞いただけで成程、この神様が本当の神様だ、と云うふうに分かる。そこから金光様の信心を勉強もしよう。いわゆる、実顕実証さして頂こう、と云う事になってくる訳ですね。 皆さん、どうでしょうか。
 合楽は間違いない、おかげが間違いない、と云うのぢゃなくて、説かれる所が間違いない、という、その確信をもってせんとね。
 起きてくるその問題、一つ一つにふり回されてしまわにゃならん、起きてくる問題そのものを土の心で受けさえすりゃいいのだから、こんなに簡単な事はないのだ。
 それを難儀とか、その問題にふり回されて、あれこれと、迷う心がおこってくる。
 本気で教えを行じよう、と云う行じる事が出来ない、いつまでたっても傘一本が頂けない、と云う事になるのぢゃないでしょうかね。                        「どうぞ」